「ゆく夏や 風呂にただよう 異臭物 単振動を 繰り返し居り」
今年の夏は暑いというけれど、あの夏もまた格別に暑かったことを思い出す。
亭主は、高校の同期であるK氏、T氏、Y氏らとともに松本にある予備校の寮に居て、気ままな(しかしどこかに不安を残した)浪人生活を送っていた。まるで独房のようなクソ狭い(確か3畳も無かった気がする)寮室で悶々と受験勉強をするしかなかったとはいえ、亭主は同期の仲間たちとそれなりに楽しく過ごしていた。一ヶ月の生活費をどれだけ切り詰められるか、食費はもちろん、毎月集金に来る寮室の電気代を節約するため、なんだかずいぶんセコいことをやっていたような気がする。エアコンを使わず、また部屋の電灯をつけず、廊下にたむろしては廊下の床で勉強をしていたことが思い出される。もちろん勉強だけでなく、怪しいこともずいぶんやった。おかしな俳句をひねり出しては廊下の壁に貼り付けて喜んでいた。当時の寮長は「駄菓子屋」などとあだ名されるちょっとクセのある老人だったが、それでも亭主たちの怪しい行動は、クセのある駄菓子屋からみても変わって見えたのではなかろうか。
もちろん今となってはそれも楽しい思い出である。
寮はビジネス旅館を改装したものだった。寮室は牢獄のように狭かったが、風呂はもと旅館だけあってそれなりに広かった。寮の近所にかつてビジネス旅館だったころの看板があって、「ミネラル鉱泉・大八旅館→」などと書いてあるところをみると風呂もまた売りだったようだ。ただ、ミネラル鉱泉なるものが実際にどんなものなのだったかは、とうとうわからなかった。風呂の洗い場には、おおよそ10年来も使っていないような蛇口がいくつかあって、カランをひねると真っ赤な鉄錆の水が出てきた。この赤いのがミネラル・・・というわけではなかろう。
寮生の長湯を防ぐためか、それとも単に駄菓子屋の趣味だろうか、風呂は殺人的に熱かった。もともと亭主自身熱い湯は得意ではなかったが、それにしても湯船の湯の熱さときたら常人の我慢するレベルを超えていたように思う。亭主は、まずはひたすら洗い場でカラダを洗い頭を洗い、もうどこもキタナイところなどない、完璧な状態でおっかなびっくり風呂に入り、体をむやみに動かさないよう必死に湯の熱さに耐えていた。以降亭主は、大学の学生寮で、会社の寮で大きな風呂にはいるわけだが、あれほどに熱い湯は結局経験していない。
あの夏の日、松本はうだるような暑さだった。
そして風呂もまた、地獄のような熱さだった。
亭主と同期は、少し明るいうちから寮の風呂に行った。寮には先客の駄菓子屋が居て、うーんうーんと唸りながらクソ熱い風呂に入っていた。カラダを洗いながらよくあの熱い風呂に入れるな、やはり趣味なのかなと思っていると、駄菓子屋が不思議な笑い声を上げながら風呂から出て行った。さて、亭主らが風呂にはいろうとすると
風呂の上になにやら異臭のする物体が、ぷかぷかと浮いていたのだった。
充分に把握しないまま同期が物体を洗面器にすくい取り、とりあえず風呂に入ってそうそうに上がった。風呂から出て体を拭きながら、あれはいったいなんだったのだろうという話になり、念のためと風呂に置いてきた洗面器を見たところ、やはりぷかぷかと浮いて単振動を繰り返している。だが、駄菓子屋に報じ、彼が風呂ににきたときには、異臭物は消えていた。
どうやら湯に溶けてしまったらしい。
そんなわけで、この句を文字通りひねり出したわけです。
あ、ひねり出したのは私ではなく、K氏ね。
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