走ることが亭主にとって、ある種の「自己対話」であることは、かつてのエントリにて紹介しました。
「なぜ走るのか」ではなく、「どうしたら走れるのか」を常に自らの中に問いかけながら、ひたすら前へ、前へを進み続ける。そういえば、なぜ走るのかを考えたことって、なかったですね。日々の練習でも、フルマラソンの苦しい中でも走ることに対する疑問は常にありませんでした。走りたいから走る。常にそう思い疑問に思うことは一度としてなかった・・・ように思います。
思うことは常に「前へ、前へ。」
かつては全然走ることができなかった自分が走れていること、それ自体が奇跡であり、進歩であり、大きな喜びとなっているのでしょうね。
何が一番つらいって、練習で早く起きることかもしれません。もともと低血圧なので、朝起きるときは「このまま道に倒れて死んでしまおうか」と思うくらいにテンションが下がっていたりしますので。
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亭主が走るモチベーションとする作品をいくつか。
「風の卵をめぐって(チベットのモーツアルト所収)/中沢新一(講談社学術文庫)」
チベットの高原を「異常な身軽さ」「信じられないほどの速さ」で駆け抜ける「風の行者(ルン・ゴムバ)」と邂逅した東洋学者のラマ・アナガリカ・ゴヴィンダが、思いがけず実践した「風の瞑想歩行」の体験から、タントラ仏教における身体論や意識論、身体を「管」という構造体としてとらえ、呼吸によって管へと取り入れた「風」から運動を生み出すメカニズムを考察する。
走ることと、自己の内観とを結びつける直接的なきっかけとなった作品。人間を「管」と捉え、呼吸によって「管」へと「風」を取り込み、「風」を運動へと結びつけていくという世界観、ダイナミズムが自身の直感と一致したことが、亭主の走ることへのモチベーションとなったことは確かです。
「Steel Ball Run / 荒木飛呂彦(集英社)」
「ジョジョの奇妙な冒険」で知られる荒木氏が、ジョジョシリーズ第7弾としてウルトラジャンプにて連載したコミック作品。19世紀末のアメリカで開催されたという架空の大陸横断レース"Steel Ball Run"を舞台に、、半身不随となり生きる力を失っていた主人公が再び人生を歩み始めるという物語。基本的には少年漫画のフォーマットを踏襲した「能力バトル」を中心にストーリが展開されるが、作中の登場人物はいずれも自身の人生観をもち、信念のもとに主人公と対立する。
多くのレース参加者が馬によって大陸を横断する中、登場人物の一人、ネイティヴ・アメリカンの若者だけがたった一人、自らの足で走破を試みる。そのエピソードを読んだとき亭主はちょうど身体に変調をきたしていて、高熱の中、自身が若者となって、アメリカ大陸横断に挑まなければならない、という夢をなんども見た。出来るわけがない、という無力感と、これからはるか6000kmを走らなくてはならない、という絶望感に包まれたことを記憶している。
だが、そんな無力感、絶望感は覆されることになります。2011年1月21日、間寛平さんが、実に3年の歳月をかけてランとヨットで世界を一周したとき、亭主のなかにあったあらゆる否定的な感情が一切消えうせ、自身の「前へ、前へ。」の気持ちがさらに磐石となったことに気付かされたのでした。
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