2006年といえば本当に「最悪」の年で、あらゆる不幸が一気に押し寄せてきた年でありました。
人生に疲れ、もうこのまま死んでしまおうかと考えてみたこと数知れず、しかしなんやかやと忙しく、結局死ねずにだらだらと暮らしていました。楽しいことにも身が入らず、好きなラーメンを食べることすら億劫になる日々。もうこうなったら徹底的に自分をいじめてやろう、否定してやろうとして始めたのが
ジョギングでした。
最初は電信柱と電信柱の間の距離を走ることすらできず、少し走っては歩き、また走っては歩きの連続でした。直線距離で2.5kmほど先のローソンまで行き、そこでウィダーインゼリーを買って、飲んではまたひいこらと戻る毎日。
ところが続けるうちに少しづつですが歩く間隔が短くなり、いつの間にか5km程度ならばなんとか走れるまでになったのでした。
走っている途中亭主がいつも考えていたのは、「どうしたらこの苦しさから逃れられるのか」ただひとつ。
走っているときの呼吸の仕方が悪いのかもしれない、走るフォームが悪いのかもしれない、あるいはエネルギーの使い方が悪いかもしれないと、常に内側に意識を集中していました。取り込んだ空気をどのように身体の中に届けるか、体内の気の流れをどうコントロールしていくか。中沢新一氏の著書「チベットのモーツァルト」のひとつの章「風の卵をめぐって」によれば、広大なチベット高原の台地には「風の行者」なる仏教修行者が居て、大小小石の散在する荒野を、異常な身軽さ、信じられないほどの速さで、まるで空中に浮かんでいるかのようにバウンドしながら瞬く間に通り過ぎていくのだそうです。
亭主自身、この「風の瞑想歩行」なる走法に魅了され、現在に至るまでずっと体内の気の流れを意識しつつ走っています。呼吸とともに取り込まれるのは酸素だけにあらず、植物や大地、風の持つエネルギーを体内に取り込み、自らの身体に蓄積したエネルギーとともにぐるぐると体内を巡らせることで、長距離を走る力を得ています。もちろん、一般的に言われるランニング方法、たとえば腹筋や内転筋などの内側の筋肉を使った走法とか、体重の移動方法なども意識しているのですが・・・
いわゆる体育会系の人たち、さしたる努力をしなくてもそこそこ走れてしまう人たちにはおおよそ思いつかない、「気」の流れを意識した走り方には、運動の苦手な亭主なりの工夫があったのでした。
自分を否定し始めて以降、彼女(現在の妻です)が出来たり、仕事がうまくいき始めたりと急に周囲の状況が展開しはじめ、気が付いたらこの有様です。良いのか悪いのか、正直よくわからないのですが・・・まあ、妻と、まはろくんと、楽しい毎日が送れているのだから、良いといえるのかな?
人生に疲れた方は、走らなくても良いので、ぜひとも一度「自分の苦手なこと」にチャレンジしてみることをオススメします。
膠着した状況、逼塞した状況が、逆から風を通すことで急に動き始めるかもしれませんよ。
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