たぶん私は、別れるのが苦手なのだろう、これまで多くの人と別れてきたけれど、円満に別れたという記憶がまったくない。
喧嘩別れにせよ、連絡が途絶しての別れにせよ、どこかに何かを置き去りにして別れていて、それがずっと後まで「しこり」や「澱」となって残る。
次にあったときに何と切り出したらいいものかと考えると気分が重くなる。
「すみません」
と長年の無沙汰と非礼を許してもらうしかない。
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大学時代、特に1~2年目は孤独な生活を送っていて、こんな生活がいつまで続くのだろうか、はやく卒業して、こんな場所、こんな環境からおさらばしたいと常々思っていた。ただ、大学生活の中でお世話になった人、根暗だった亭主に積極的にかかわってくれた人は少なからずいた。当時のひねくれた、貧しい心のなかでは「うっとうしい」と感じられた彼らだが、今となってはもっと素直にかかわっていればよかったと後悔の気持ちばかりが先に立つ。
もう20数年も前の話になるが、亭主には、某大学のジャズ研・・・いやビッグバンド研究会に所属している友人がいた。亭主は出身県の県人会の寮に入っていたから、同郷、ということになる。彼の部屋には、古ぼけたコートと、ギターくらいしかなく、いつも亭主の部屋にやってきては雑談したり、亭主が親戚からもらってきたせんべいを食べては時間をつぶしていた。亭主はといえばあいかわらずの根暗人間で、彼の来るのを拒否こそしなかったものの、あまりうれしそうな顔もしていなかったように思う。一人で本を読んだり、パソコンを弄ったりするほうが好きだったから、彼の来訪は、平穏な日々を破るものだった。
だが、当時は彼からいろいろなことを学んだ。
ジャズの名盤、彼のオススメのジャズ・ミュージシャンの話を聞いてジャズに入門してみたり、また亭主の好きなアーティストの多くが、ジャズからの引用で曲を作っていることを知った。亭主が当時好きだったゲルニカ(上野耕路+戸川純+太田螢一)のアルバムを二人で聴いていて、彼が新しいフレーズをひらめいたこともある。バイト代が出たからと、浦和駅前のショットバーに誘われたこともある。そうそう、亭主の持っていた高野文子の「おともだち」を読んで衝撃を受け、彼もまたどこからか「おともだち」を買ってきたこともあった。二人で金が無くなり、駅前のパン屋でダンボール一箱分のパンの耳を50円で買い、二人で水とパンの耳の食事をとったりもした。当時は意識しなかったが、亭主にとって彼は確かに「相棒」だった。
大学2年目の3月、亭主はその寮を出て、学校の近くのアパートに移り住むことになった。
亭主の悪いクセが出て、誰にも告げずにそっと寮を出るつもりだったが、なぜか彼とは寮の前でがっしりと硬く握手をして別れた記憶がある。その後しばらくは彼が学祭にやってきたりと何かで交流があったが、しばらくして手紙がやってきて、親も、また彼も学費が捻出できなくなったため中退して実家に戻ることを知った。ただ、手紙を返す気分になれず、そのまま放っておいた。
あるとき気が向いて、彼の実家に電話をかけたところ、偶然にも彼が電話に出た。
「あ、俺だけど」
「わりい。いまパスタ茹でてるとこ」
「あ、ごめん」
がちゃん。これだけ。
以降20数年連絡をとっていない。もちろんいま亭主がどこにいるかは20数年間まったく知らせていない。
ついこの前ふと思い出して、彼の名前でgoogle検索したところ、地元でジャズ・ギタリストとして、またイベントのコーディネータとして活躍していることを知った。彼自身ではないが、関係者が演奏風景をYoutubeにアップロードしていたりもした。久しぶりに見る彼は、学生時代の肩まで延びていた髪をばっさり切って
・・・髪の毛がすっかり薄くなっている。
彼はたぶんこちらのことなど覚えていないだろうし、仮に覚えていたとしても、特に何をどうするわけでもなかろう。連絡をとったとしても「いまさら何だ」と思うだろう。
元気そうにしていることだけはわかったので、Youtubeにあった関係者のアカウントをチャンネルに登録し、ブラウザを閉じた。
まあ、そのなんだ。
よかった。
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