昨晩の夢。
「終電に揺られ、日立駅に到着。駅の改札を降り、駅前タクシーを拾おうとタクシー乗り場に行くが、OLの集団が同じくタクシーを拾おうとしていてなかなかタクシーの順番が回ってこない」
実は亭主、常磐線や日立駅、日立駅前の夢は、これまでにもなんども見たことがあって、そのどれもが(現実のそれとは違う)同じ風景なのであります。
常磐線は、昭和40年代を思わせるみすぼらしい列車。車両の床が高く、まるで2階建てバスのように天井近くに座席がある(もちろん天井はあります)。電車は東海駅で終点、日立駅で終点などとにかくつながりが悪く、一度電車を逃すと体勢を立て直すことができない。日立駅舎はこれまた昭和40年代を思わせる古さで(最近出来た線路上のモダンな建物では断じてありません)、自動改札はあるものの、あわせて駅員さんがぱちぱちと切符にハサミを入れていたりもするのです。
そして極めつけは日立駅前の田舎度合い。開発というものが全く行われていないかのような素朴なまちなみ、地元を流れる宮田川を中心に、川の北側、南側にぽつぽつと家が点在するほかは、駅前に簡単な食堂と履物屋、雑貨屋が並び、簡単な駅前ロータリーがあるという、まさに日本の原風景とでもいえる風景なのでした。
ここ数年、亭主が日立駅の夢を見るときは、かならず決まってこのド田舎の駅舎が登場し、夢の中では、あるいは目が覚めてもすっかりとおなじみの風景となってしまいました。よく、明晰夢(自分で夢を見ていると夢の中で自覚する夢)を見る人が、こんなシチュエーションはありえない、これは夢であろうと気が付く場合があるそうですが、いかにありえないシチュエーションであっても、亭主のように風景を見慣れてしまうと、それがいかにアナクロな、高度経済成長期以前の風景であるとわかっていても、ごくごく当たり前の風景として受け入れてしまうのです。
亭主自身、何度もこの夢を見、また夢の中の街を歩いていたせいで、このありえない街の中をよくよく把握できるようになってしまいました。
YMOが1993年に再生、リリースしたアルバム"Technodon"の3曲目に"Floating Away"という曲があります。この曲には、SF作家のウィリアム・ギブスンが歌詞を提供しており、ギブスンによる歌詞の朗読が、曲の各所にサンプリング・カットアップされて収録されているのですが、その中に
"Psychogeography"(精神地理学)
という言葉があって、亭主などはまさにこれだ!と思ってしまったのですが、関係書籍を読むとどうもスピリチュアルな場所(いわゆる神域と呼ばれる場所)の話で、少し違う話題みたい。
ただ、ネットを検索してみますと、似たような体験をされている方はほかにもおられるようで、「夢の中の地図」というのはあながちレアな体験でもないのだなと、思ったりしています。
亭主自身、「夢の中の地図」なるものがどういう心の働きで出来上がっているのかは、(腹案はあれど)なかなか決定打となるものはありません。子供の頃の記憶か、都合の良いように単純化された記憶か。この世界が無意識を通じて様々な人と繋がっている・・・というのはないな。妄想しすぎ。
また夢に見たいとは思いませんし(過疎過ぎるし電車接続悪すぎる)見たところでどうということもないのですが、駅からまだ家にたどり着いていないのだけは、気になります。
家、あるんだろうか。
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