浪人生活を脱出し、あこがれの東京・・・じゃなかった首都圏での生活を始めるべく浦和の学生寮に入ったのですが、亭主自身、浦和と、学生寮には最後までなじめなかったように感じます。
もちろん今はいい思い出、浦和という土地にも少なからず愛着を感じていて、かつてはしばしば学生寮のあった場所を訪れたり、好きだった中華そばの店に立ち寄ったりしていました。
ですが、学生寮時代、亭主は浦和という土地、また学生寮という環境のなかで、常に異邦人状態といいますかヨソモノの感覚を味わっていました。市街地にはお気に入りのCD店や書店、古本屋、喫茶店などがあり、浦和の町を十分に満喫していたのですけれど、市街地を外れるとすぐに道に迷い、ただ意味もなく住宅地の中で堂々巡りをすることが非常に多かったように思います。
浦和という街はどうやら複雑な起伏の地形の上に発達した街のようで、かならずしも道路が東西南北方向に、直線的に伸びていないのですね。地形に沿って緩やかにカーブした道と、方向を確認するためのランドマーク(たとえば山)がないため、どうしても方向を失うことが多いのです。
学生寮でも親しい友人は一人しかおらず、しかもその友人もなんやかやと忙しくてほとんど学校にも、また寮にも姿を現しませんでした(姿を現すときはいつも金欠で疲れ果て、ときには失恋でやつれた顔をしていました)し、そもそも学生寮の行事に顔を出したこともありませんでした。寮にいるときは部屋の中で音楽を聴いたり本を読んだり、パソコンに没頭していたり、あるいは誰もいない屋上の給水塔によじのぼっては、遠く武蔵野線を走る電車をぼんやり眺めたり、浦和競馬場の向こうの空の雲を流れるさまを追ったりしていました。寮祭といって、寮の庭で夜を徹してキャンプファイヤーをしたり踊ったりする行事がある日には、浦和駅前の24時間の喫茶店でコーヒー一杯で一晩過ごしたものでした。
そもそも寮の部屋は、まるで病室のような狭さと殺風景さで、リノリウムの床板が常に冷たかったのを思い出します。部屋にはエアコンも、外へつながる電話も、またテレビアンテナすらなく、巨大な木の机と、同じく巨大な木のベッドをようやく部屋の隅におしのけて場所を確保していたくらいです。
寮から大学へは、自転車で30分、京浜東北線で20分、電車待ち合わせが10~20分として東武野田線で1時間。毎日2時間以上をかけて通っていました。朝は6時おき、7時前には寮を出て、帰宅は常に20時を過ぎていました。こんな生活では寮にも、大学にも親しい友人はできず、楽しそうにじゃれあう大学の同期たちの横で、いぶかしそうに彼らを眺めつつ話をあわせる日々が続いたことも思い出されます。
もちろん友人がいない、というのは亭主の勝手な思い込みで、実際にはみなずいぶんと亭主に対して気を使ってくれていたように思います。なにかにつけて話しかけてくれ、また誘ってくれる、気のいい人たちばかりでしたから。それだけ亭主が暗かった、いじけていた、ということもあるのでしょうね。
孤独な大学生活の中で、浦和という土地や、そこに住まう人たちに癒しや救いを求めることがなかった、というのは、今考えてみると非常に不思議というか、今ならば到底耐えられない話なのですが、当時はまるで現実から目を背けるかのように読書や、音楽を聴くことに没頭して、それ以外のことは考えられない、というくらいに閉鎖的な生活を送っていました。当時読んでいた本は、大学を卒業する際にほとんどすべてを処分していて、亭主自身どんな本を読んでいたか・・・本棚を眺めても、当時好きだったつげ義春や高野文子(どちらも漫画)、それに神林長平くらいしかと思い出すことができません。
たぶんいろいろな本を読んでいたのでしょうが、その記憶は、大学生活という暗い思い出とともに脳の深い深い奥へとしまいこまれ、封印されてしまっているようです。
本当に、思い出せないのです。
なんだったんだろう。あの浦和での2年間は。
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