たとえば、プレーヤを中心としたシステムは構築可能だろうか。
亭主はデジタル世代(古い)なのでプレーヤといえばCDPを指す。つまりCDPをイの一番に決定し、次にアンプ、次にスピーカと出口に向かってシステムを決めていくというのは、果たしてアリなのだろうか。
たとえば、浪人時代に予備校の寮に入っていた1987年、二つ隣の部屋のT君(高校の同級で今でも年賀状をやり取りしている)は、寮室にSONYのCDP-35だかCDP-55だか、そのあたりを持ち込んでヘッドフォンで聴いていた。オーディオのような強音機器は一切禁止の寮で、CDP+ヘッドフォンという組み合わせは唯一「オーディオ」として許されたシステムだったのだろう。1987年といえばCDがメディアとして巷に普及し始めた頃で、レコード店(そうレコード店だ)にもLPとミュージックテープ、それにCDが当たり前のように併売されていた。T君のプレーヤを聴かせてもらったことがあったかどうかよく覚えていないが、当時ラジカセを使っていた亭主、かなり羨ましかったことは覚えている。
就職して、会社の近くにあるCD/オーディオの店(そうCDの店だ)によく行っていた頃、オーディオコーナーの店長に「こんなシステムもありますよ」と紹介されたのが
だった。「DC電源を使用したコンパクトCDプレーヤは音がいい」という主張はつい最近まであった(現在もあるのだろう)が、この時そんな主張があったかどうかよく覚えていない(そんなんばっかし)。ただ、SonyのコンパクトCDプレーヤ第1号機D-50は音質的にもかなりこだわったモデルで、まだまだ集積度の低い筐体は重量感・安定感があって、なかなか軽快な音を聴かせてくれていた。スピーカがBolero Piccoloというのもまた気が利いている。D-50のメカメカしさと、Auraの未来的なデザインの組み合わせも秀逸だった。D-50だけは店長の私物だったのでこのシステムとしては結局販売されなかった。ただ、Bolero PiccoloもAuraもほどなく売れていき、亭主がこのシステムで音楽を楽しむ時間はほとんどなかった。
D-50を中心としたシステムが気になっていた亭主、SONYのPC用小型スピーカSRS-Z1を買った際、デザインと色味がよく似たSONY D-EJ1000を購入し、SRS-Z1のアンプ部分に乗せてベッドサイドで聴いていたことがある。ただ、これはどちらかといえばSRS-Z1に重きを置いたシステムで、小口径のスピーカから放たれる銃弾のような中高域、バスレフから出るマッシブな低域が気に入っていた。この二つはひょんなことから弟に譲ったが、今でも使っているだろうか。SRS-Z1はいつか中古などで買い直したいと思っている。
D-EJ1000のほかにも、PanasonicのコンパクトCDプレーヤSL-S30(発売を待って秋葉原に買いに行った)を所有していて、SL-S30+SRS-Z1という組み合わせも試したことがある。ただ、SL-S30はピックアップのシーク音やディスクの回転音がかなりうるさく、音楽を聴いていて興がそがれることが度々あった。D-50はシーク音がほとんど気にならなかった。自宅でいろいろ試していて、さすがSONYと感心したことが思い出される。
少し前の話になるが、ハードオフのジャンクコーナーにAmadana MusicのコンパクトCDプレーヤ"C.C.C.D.P"が置かれていて、そのデザインが気に入って一も二もなく購入している。Amadana MusicはAmadanaというソリューション・ベンチャーがユニバーサルミュージックと共同で立ち上げた音楽ブランドで、C.C.C.D.Pはこのブランドからのプロダクト第3弾、2018年10月にクラウドファンディングによって製作されたものだそう。
電源がUSB TypeCだったり、デジタル出力が光のみだったりとクセはあるものの、マイルドな出音はデジタル世代にとってはかつてのCD全盛時を思い出させる、まったりできるサウンドに仕上がっている。
当初は光出力でDenonのデジタルアンプPMA-60-SPにつなげていたのだが、ディスクが回り始めるとなぜか「ボツッ」というポップノイズが出た。電源を付けたり、消したりしても出るので、電源系になんらか弱い部分があるのかもしれない。個体特有か、経年劣化なのかはよくわからないが、この組み合わせはオススメしない。それにPMA-60-SPはUSB-DACとしてPC-iTunesから音楽を再生していたり、OnkyoのカセットデッキK-522MがつながっていたりとC.C.C.D.Pをシンプルに、スタイリッシュに使うには適していない。
なんといってもオススメは、ヘッドフォンで聴くこと。亭主は現在、
の組み合わせで楽しんでいる。置き場所はCDを積み重ねている衣装ケース(31ケースある)の上。ケースの中からCDをとっかえひっかえ取り出しては試聴する、もちろん立って聴いている。まさにレコ屋気分である。
なんとなくNakamichiの業務用CDチェンジャーを思い出し検索したところ、Amazonに中古整備品が売られているのを発見した。これもまたご自宅でレコ屋気分を味わうにはぴったりの製品である。
プレーヤを中心としたシステム、ありだな、アリ。
パワーアンプ直結システムは、音楽を聴くための最小構成の一つである。
音楽ソースをスピーカに伝えるための伝送路はなるべく短く、また通過する回路は少ない方が良い。音楽を鮮度の高いまま再生する、それがパワーアンプ直結システムの主眼なのだ。
もう一つの最小構成は「CDP+ヘッドフォン」または「携帯プレーヤ+イヤフォン」の構成だが、PAシステムという意味ではパワーアンプ直結がミニマルといってもよさそうである。
ただ、昨今の音楽再生環境の変化を考えると、「CDP+アンプ+スピーカ」のうち、CDPの部分を「DAC」とし、PC側で音楽を再生する構成もありうる。また「アンプ」部分にデジタル信号を直接入れることができれば「アンプ+スピーカ」でも最小構成となる。ただしこの場合のアンプはデジタルアンプが想定されるため、パワーアンプ直結の主旨からは外れてしまう。PCからアナログ音声信号を出力し、アンプで受ける構成は気乗りがしない。
結果的にパワーアンプ直結のもう一つの形態は、「DAC+パワーアンプ+スピーカ」となる。この場合PCからDACに音楽信号をデジタルで送出するため、背後にPCオーディオが存在することになる。
応用例としては、PCからのデジタル信号をCDPに入力し、CDPのD/A機能を通じてパワーアンプにアナログ信号を送出する方法もある。
亭主が所有するAccuphase DP-55Vには、44.1/48kHzのデジタル信号を入力する簡易のDAC機能が備わっているため、この方法が可能。ただしハイレゾ音源は再生できない。
これまでのオーディオ遍歴のなかで、個人的に最も腑に落ちたシステムは
というもの。いわゆる「パワーアンプ直結」のシステムである。
真空管アンプ側にボリュームコントロールはあるものの、そちらは最大に設定し、CDP側のVariable出力で音量を調節する。CDPの簡易なプリアンプ機能で音の良しあしを量ることは難しい、とはいえ非常にシンプルなシステム構成が気に入って、しばらくはこのシステムで音楽を楽しんでいた。
そのうちアナログプレーヤを手に入れ、ソースの切り替えが必要になったころから亭主のシステムが揺らぎ始め、プリアンプを導入したり、半導体アンプに買い替えたりと右往左往し始めるのだが、基本はあくまでも「パワーアンプ直結」であり、信念として揺らぐことはなかった。
パワー+プリにOrpheusを手に入れてのちはシステムが急速に結晶化したのだが、つい先ごろ死蔵となっていた真空管アンプを引っ張り出し、久しぶりに「パワーアンプ直結」のシステムを組んでみた。
出音の豊かさ、素直さに、あらためて「パワーアンプ直結」の良さを再確認。スピーカやアンプのつなぎ直しは多少面倒だが、しばらくはこのシステムも使っていこうと思っている。
高橋幸宏のソロ活動40周年を記念して製作されたアルバム。ユキヒロさんの最初のソロ・アルバムである"Saravah!"のオケはオリジナルのままに、ヴォーカルのみを再録音したという意欲作。リマスタリングはYMOのベスト"Neue Tanz"と同じく砂原良徳。アート・デザインはテイ・トウワ。
これはいつか書いただろうか、亭主が最初に聴いたユキヒロさんのアルバムが"Saravah!"であった。高校生の頃、亭主の通う高校があった街の貸レコード屋"友 & 愛"で、学校帰りに借りたのがこのアルバムだった。家に帰り、父親のレコード・プレーヤ(当時は家具調の大きなステレオが家にあった)で再生しようとしたが、肝心の音が出てこない。しかたなく小学校からの友人だった小林君の家に行き、小林君の持っていたステレオのプレーヤから、カセットにダビングした。手間賃に小林君もアルバムをダビングし、翌日貸レコード屋に返したのだった。返す日付がずれると延滞料金をとられる、レコードに傷をつけるとこれまた罰金を払うことになる。いろいろと気を遣うことが多く、よほど精神的に疲れたのだろう。以降貸レコード屋に行くことはなくなり、せっせとアルバムを買い集めることになった。もちろんレコードではなく、カセットテープである。レンタルCD、ダウンロード、Youtube。メディアコピーはいつの時代も世間のメインストリームだったが、亭主がしつこくアルバムを購入するのは、実はこのあたりが原体験だったようだ。
その後しばらくはダビングのテープ(当時FeCrのテープを使っていた)を聴いていたが、大学生になってCDラジカセを手に入れてからはCD盤を購入した。テープもいいかげんよく聞いたが、CDもまたこれに輪をかけて聴いた。ついでにこの"Saravah Saravah!"もしつこく聴いている。亭主にとって"Saravah"は、青春時代を共に過ごした大事な音楽の一つなのだ。
さて、そんな"Saravah"を亭主がどのようにして知ったのかといえば、これにもまたエピソードがある。亭主は中学生の頃、父親に頼み込んでNECのパーソナルコンピュータPC-6001を買ってもらっていた。父親の「これからはコンピュータの時代だ、コンピュータを使える人間こそがこれからの時代を生き抜いていける」という言葉が、貧乏だった我が家にパソコンを導入させたのだ。当時はパソコンを持っている人間はごくごく限られていて、亭主はとにかくうれしかった。しかしあとで振り返ってみると、父親の言葉の重さ、時代を先取りした価値観にただただ驚かされる。地元の農協で、ガソリンスタンドやガスの配送や、家電を売っていた父が時代をどこまで見通していたか。しかし確かにコンピュータの時代はやってきた。
はなしがそれた。
PC-6001を買ってしばらくはゲームで遊んでいた亭主だったが、ほどなくBASICのプログラミングに夢中になった。自分でゲームをプログラムできればいくらでも遊べると思ったのだ。BASICのプログラムを学ぶにあたって、いくつか教本やら、参考書を買ったのだが、その中の一冊に女性プログラマの「高橋はるみ」さんの著書があった。高橋はるみというと最近は北海道知事が有名だが、そちらではない。高校生でゲームプログラミングを学び、東京のソフトハウスに出入りしながらあちこちのパソコンでBASICのゲームを製作、パソコン雑誌にプログラムを投稿しては人気を博した、当時で言えば「スタープログラマ」かつ「アイドル」だった。
この高橋さんが書いたゲームプログラミングの本のコラムに「高橋幸宏のSaravah」がお気に入りで、これを聴きながら夜明けを迎える日々が続いているという記載があったのだ。当時中学生だった亭主、YMOも高橋幸宏も知っていたが、Saravahというアルバムは聴いたことがなかった。アルバムを買おうにも、家電の脇にミュージックテープやレコードがこじんまりと並んでいるような田舎の電気店に、高橋幸宏があるとは思えなかった。注文ができるとしてもアルバムの型番がわからなかったし、中学生風情がアルバムを注文することなど、恐れおおくてできなかった。世間にまだまだコンピュータが普及していない時代のお話である。もちろんインターネットも、Amazonもない時代、長野県の小さな谷の小さな商店街で、中学生にできることなどまったくなかったのだ。
そんなわけで亭主にとって"Saravah!"は、聴きたくても聴くことのできない幻のアルバムだった。 スタープログラマの女性が、徹夜までして聴くアルバムとはいったいどれほどのものなのか。はたしてその思いは2年後、亭主が高校生になって叶うこととなる。残念ながら亭主は一人部屋を与えられず、弟たちと共同の勉強部屋に居たため音楽を聴いて朝を迎えることができなかった。ただこの思いはさらに3年後、亭主が浪人生となり松本の予備校の寮に入ることになって叶うことになる。当時はなにをするにも時間がかかった。だが、時間さえあれば思いはすべて叶った。コンピュータ時代となり、会社員となったいまでは、思いはすべてインターネットと、金が解決してくれる。
亭主がダビングしたカセットで、CDでひたすら繰り返し聞いたオリジナルのアルバムの音は、亭主のアタマの中にすべてが入っている。ヴォーカルを再録音したという本作だが、歳を重ねて円熟味を増したユキヒロさんの声とは別に、オケもまたリマスタリングによって様々な部分が変更されていて興味深い。イントロが少し長めに収録されているものもあれば、ドラムのソロがちょっと派手目にミックスされているものもある。全体的にはゴージャスなアレンジ、オリジナルのヨーロピアン・ポップスからワールドワイドなポップスへと軸足を移し、より裾野の広い音楽へと進化している。オリジナルの作曲・編曲には坂本龍一が全面的に関わっているが、格調高いヨーロッパのサウンド、坂本さんのクラシックに対する深い造詣とこだわりがリマスタリングによってポップに昇華されていることを、果たして喜ぶべきか、それとも残念とするべきか。聴くたびにオリジナルとの違いに「おや」「おや」と思う亭主、しかしそれは不快ではなく、むしろ亭主の記憶を刺激するここちよい違和感である。若いころ聴いたアルバムと、ほんの少し異なるアルバム。しかしその根底には中学生の頃、高校生の頃、浪人生の頃、そして大学生の頃に聴いたアルバムの音があって、新しいアルバムの通奏低音となって常に亭主の中で響いている(2018.10.23)
大学1年の頃にバド・パウエルの音楽を聞きはじめた。同じ寮に住む某大ビッグバンド同好会のギタリスト(仮にカルピス氏と呼んでおこう)に、ジャズでも聴いたらどうだといわれたのがきっかけだった。
当時亭主はYMOとテクノポップとゲーム音楽をこよなく愛する、いわゆる「オタク気質」で「ネクラ」な人間だったので、カルピス氏としてなにか思うところがあってジャズを勧めたのかもしれない。なにしろオタクでネクラな亭主である。彼の言葉を無視するかと思いきやよっしゃ分かったとレコード屋(たしか浦和の「ぶれえめん」だった)に出かけ、選んだのがThe Amazing Bud Powell Vol.2だった。ジャケットがまさしくジャズらしいのが気に入った。いわゆるジャケ買いである。
寮のCDラジカセで聴いていたところカルピス氏がやってきて、ピアノならセロニアス・モンクのほうがよかったのにといわれたが、ハアと思うくらいでモンクのつけようもない。なにしろモンクのピアノを聴いたことがないからだ。CDラジカセの向こうから聞こえるバドのピアノは、たどたどしくて不安定で、しかも演奏に熱中するあまりなにやらうなるような声も聞こえる。亭主はクラシック音楽をほとんど聴かないが、彼の音楽はクラシック音楽と対極にある音楽だと、ジャズとはそういうものなのだと確信した(テクノポップとゲーム音楽ばかり聴いていた亭主にしてはまともな印象だ)。なかでもお気に入りはNight in Tunisiaだった。当時愛聴していた細野晴臣のアルバムOmni Sight SeeingにジャズスタンダードであるCaravanのカヴァーが収録されていて、こちらもお気に入りだった。アラブや北アフリカのエスニシズムに強く惹かれていたのだろう。
のちにセロニアス・モンクのピアノも聴いたのだが、あまりにも流麗でピンとこなかった。バドの不安定な、しかし天才的なセンスを感じさせるピアノに対して、モンクのそれは秀才的だった(もちろんこれは亭主の勝手な感想だ)。のちにラグタイムやカントリーなども聴くことになる亭主にとって、モンクのピアノはどこまでも正統派だった。オタクでネクラで、いわゆるマイノリティの価値観を持ち合わせる亭主とは感性が合わなかったのかもしれない。
ところでThe Amazing Bud Powellシリーズを含むBlue Noteのアルバム群は、様々なレーベルから、また曲構成を微妙に変えて何度もリリースされている。古くからBlue Noteレーベルを網羅しているマニアの方ならばおそらくすべての内容を把握されているのだろうが、亭主の場合Vol.1はUniversal、Vol.2とVol.3はTOEMI盤を購入していて、しかもTOEMI盤すらリリース時期が一致していない(Vol.2を購入したのが1988年、30年前なのだから仕方ない)。今回の2枚+30年前の1枚をもって楽曲の重複なくアルバムコンプリートできたのかは自信がない。Amazonなどで内容を確認してみたところ、微妙に楽曲が異なる。
たとえばThe Amazing Bud Powell Vol.1のオリジナルLP(1952)は8曲入りだが、2001年のRudy Van Gelder Edition-CDでは全20曲、LPの曲順を大きく変えている。次いでVol.2のオリジナルLP(1954)は8曲入り、亭主の所有する1989年のCD盤は曲順を入れ替え全15曲。この盤でNight in Tunisiaが入る。その後2001年のRVG EditionではNight in Tunisiaが消え、本来の曲順を変えつつ15曲入りとなる。Vol.3のオリジナルLP(1957)と亭主の持つ盤は同じ曲構成、RVG Editionで1曲が追加されているにとどまる。どれを買えばよいかは個人が判断するしかない。高音質盤であるRVG Editionを買うのが妥当なのだろうが、Vol.2に亭主の好きなNight in Tunisiaが含まれない。果たして今、なにも知らない亭主がVol.2を購入したらバドのピアノに魅力を感じただろうか。
曲との出会いは、人間との出会いによく似ている。大学1年の亭主があのときジャケ買いしなければ、生涯聞くであろうバドのNight in Tunisiaには出会っていなかっただろう。
最後に今回購入したVol.1, Vol.3各アルバムのレビューを。
Vol.1のM1-11にはFats Navarro(Trumpet)、Sonny Rollins(Tenor Sax)、Tommy Potter(Bass)、Roy Haynes(Drums)が参加。トランペットやテナーといった強音楽器が加わるとピアノの存在感、ひいてはバドの存在感が薄れるが、これはいたしかたないことだろう。M12-20はCurley Russell(Bass)、Max Roach(Drums)のトリオ構成で、こちらのほうが圧倒的に「バドのアルバム」である。Vol.2のRVG EditionにはないNight in Tunisiaも収録されている。
Vol.3は遊び心あふれたアルバム。Paul Chambers(Bass)、Art Taylor(Drums)のトリオに、Curtis Fuller(Trombone)がゲスト参加。M4のBud on Bachは文字通りクラシカルな楽曲をバドがカヴァーしていて、ジャズらしからぬ構成がおもしろい。全体的にポップで、聞きやすいアルバムに仕上がっている。
オーディオテクニカのインナーイヤー型イヤフォン、ATH-CM707の左チャンネルから雑音が出るようになった。当初はプラグの接触の問題だろうとタカをくくっていたのだが、次第に左から出てくる音がまばらになり、最後には全く聞こえなくなった。いわゆる故障である。
亭主はATH-CM707をずっと愛用していた。現在主流となっているカナル型イヤフォンに致命的であるタッチノイズ(イヤフォンのコード部分を触ると音がイヤフォンにまで伝わってくる)が不快で、かたくなにインナーイヤー型を使用していたのだ。カナル型はSennheiser, Philips, Beatsなど数種類を所有しているが、いずれも死蔵状態となっている。今回ATH-CM707が故障したことで出先で音楽を聴くためにしぶしぶPhilipsのSHE9720(これはインイヤー型だが外見といいタッチノイズといいカナル型と言っても問題ない)を引っ張り出してきたが、インナーイヤー型へのこだわり捨てきれずamazonでCM707の在庫を探している。
それにしても世間ではなぜカナル型が席巻しているのか、亭主には全く理解できない。先に述べたタッチノイズが不快であるばかりか、運動時に耳穴から外れることが頻発して、音質以前に使う気が失せていた。スポーツ用には耳たぶにひっかける形状のイヤフォンも存在するし、インナーイヤー型でもイヤフォンが耳穴から当然のように外れるからカナル型が格別外れやすいというわけではないのだろうが―――。
ATH-CM707はどうやらまだAmazonに在庫があるらしく、市場にはまだまだ流通しているようである。Philipsのサイトなどを眺めてみるとカナル型が席巻している。Sennheiserのサイトにはかろうじてインナーイヤーがラインナップされているが、主流ではないらしく激安モデルばかりと寂しい限りである。
久しぶりにWonder Rex那珂店に行ったところ、程度の良いAuratone 5PSCが売られていたので躊躇することなく確保した。店側は「コーンに変形あり」とのことだが、スピーカの振動板と、リード線をつなぐ部分に若干凹凸があるのみで、不具合とは到底思えない。エンクロもスピーカエッジもネットも、またネットについているエンブレムも非常に美麗で、年代物という感じもしない。もしかしたら復刻品だろうか。レストアならばすさまじくいい仕事をしている。フェイクだとしても良い値が付くだろう。これが16000円は、安い。
亭主は以前、ネットのお友達・ヌシさんに5PSCを進呈し、代わりにBehringerのUltramatch Pro SRC2496を手に入れていた。しかるに防磁型の5PSCを買い直したいとかねてから思っていたところなのだ。5PSCは亭主が初めて購入したAuratoneということで思い入れも大きい。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
Auratoneの魅力を語ればきりがないが、コンパクトなエンクロージャにフルレンジというミニマルなデザイン、割り切った出音を亭主は特に好む。よい音かと聴かれて、よい音ですと言い切るのは若干の躊躇と勇気が必要であるが、かといってこれにスーパーツイータやサブウーファを付けてよい結果が得られたという話も聞かない(ちょうどスーパーツイータがあるので今度やってみようか)。Auratoneは録音現場で中域のチェックに使われるいわゆるモニタースピーカであり、これ単独でプロダクトとして完成しているのだ。高域が足りない、低域が足りないという向きには素直に2Way、3Wayをおすすめしている。
Auratoneに代表される小型のフルレンジスピーカは、鉄筋コンクリートの建物で、部屋の隅から、天吊によって鳴らされたときにその真価を発揮する。部屋の隅が絶好のホーンとなって、空間を音で満たすのだ。亭主の自宅のオーディオ環境では、鉄筋コンクリートはおろか天吊すら実現が難しい(壁や天井がスピーカを維持するほどの強度を確保しているか不明だからだ)が、かつて亭主が住んでいた社員寮は天井近くに物入れがあって、ここに置いたときの出音がとにかくご機嫌だった。似たようなセッティングは、たとえばCD店や喫茶店などのオーディオシステムにも見られる。小型のスピーカが溌剌とした音で鳴るのに気がついて、はっと天井を見上げることがある。オーディオ店が本気でセッティングしたスピーカの音とはまた異なる、音楽を楽しむことのできる音である。
亭主現在、AuratoneのシリーズとしてQC-66, 5C, 5Sを所有している。かつては5Cをもう1セット、5PSCを1セット(ヌシさんに進呈)を所有していた。今回5PSCを追加購入したことになるが、さてこれらをどう使い分けていこうか、その案は特に持ち合わせていない。とりあえずサブシステムに繋がっているQC-66を一旦外し、5C/5S/5PSCをとっかえひっかえして楽しもうかと考えている。
久しぶりにAudio AlchemyのDigital Decoding Engine v2.0を押入れから出してきて、メインシステムにつないでみた。DDEは以前にネットのお友達だったてんどんさんにオススメされたもの。正確にはv3.0をオススメされたのだが、地元のハードオフで偶然見かけたのがv2.0だった。
Accuphase DP-55VのDigital Outから同軸でDDEv2.0に入力し、Analog OutからRCAケーブルでOrpheus Twoに入力する。
はたして出てきた音は、以前聴いたのと全く同じ、高域の曇ったローファイな音だった。
亭主はてんどんさんに「雰囲気の良いDAC」をオススメしてもらったつもりだった。はて、雰囲気が良いとはどういうことだったのだろうかと、今改めて考えてみるが、具体的にどんな音が「雰囲気の良い」音なのかを的確に説明することができない。DDE v2.0とDP-55VのDACとを切り替えてみると、DP-55Vの音は極めてクリアで、まるで雲の切れ目から青空が覗いたように、さあっと視界が晴れる。世の音が、なべてハイファイに向かっていることは疑いようのない事実で、亭主もまたv2.0のどんよりした曇り空のような音よりも、DP-55Vのクリアで透明度の高い音のほうが好みである。本当にハイファイな音が良いのかと何度も自問してみる。しかしやはり聴いていて楽しいのはハイファイで、クリアで透明度の高い音のほうである。
亭主は本当に「雰囲気の良いDAC」が欲しかったのだろうか?単なるデジタル偏重主義、盲目的なハイファイ指向に逆らってみたかっただけなのではないだろうか?
世の中も、また亭主もハイファイな音が好みであり、CD、CDプレーヤから連綿と続く低ノイズ、高音域への(業界としての)挑戦は、いまやハイファイオーディオをごくごく当たり前のものとしてしまった。高音質・低価格のDACやヘッドフォンアンプが電気店で簡単に手に入り、かつては数十万円・数百万円を投資なければ聴くことが出来なかった高音質サウンドが、いまや学生にも普及している。
では、亭主の言うところの「雰囲気の良いDAC」の「雰囲気の良い」とはどのようなものだったのか?
まったく具体性に欠けるたとえ話で恐縮だが、たとえば「えび天」はさくさくの衣が美味い。しかしときおり、丸亀製麺などでツユに浸した、しっとりの衣のえび天が食べたくなる。天ぷらの王道からすれば衣はさくさくであるべきだが、しっとりの衣の需要は確かにある。さくさく感を損ねても、食べたいしっとりは確かにある。
「雰囲気の良い」音はどうやって出したらよいのだろう。さくさくの衣に対するしっとりの衣は、音にたとえることができるのだろうか。
中学生の頃だったか、二階から飛び降りたことがある。
亭主の家は、母屋(平屋)に、はなれ(二階建)をつなげた構造になっていて、亭主の部屋は二階にあった。二階からベランダを乗り越え、母屋の屋根に上ることができた。
あるとき、家の庭でバトミントンをしていたところ、腕が悪かったせいかシャトルが母屋の屋根に乗っかってばかりいて、そのたびに亭主がベランダ伝いに母屋の屋根からシャトルを庭に落としていた。
シャトルを庭に落としたあと、ふと思い立って屋根から庭に飛び降りた。
ふわりという感覚とともに、着地した瞬間に身体を衝撃が襲った。
いちおう着地の際に、かかと、ひざ、股関節をクッション代わりに、着地した際にしゃがむような形で落下したのだが、それでも数秒は衝撃で立ち上がることができなかった。
しかし、無傷。
なんとなく「ああ、屋根からならば飛び降りることができるな」と実感し、そのときは満足。以降、屋根にひっかかったシャトルを取りにいっても、飛び降りることはしなかった。
ところが、しばらくして、二階から地面へと飛び降りてみたいという気持ちがむくむくと鎌首をもたげ始める。深夜の1時ごろ、家族が寝静まったことを確認して、二階の窓から地面へと飛び降りてみた。今回も関節を最大限クッションにして衝撃を吸収することに専念した。
かなりの衝撃。しゃがんだ状態で着地して、そのまま十秒くらい動けず。
しかし、無傷。
飛び降りることができたのに満足してか、そのあとは二階から飛び降りていない。